不登校の状況にある子供たち、特に長い間、不登校や引きこもりになっている子供の中には、「自分の人生は全く意味がない」と嘆いている人も多いでしょう。他の人は普通に学校に行き、社会に出て働き、社会的なものを得ているのに、自分はずっと不登校や引きこもりで、何も得ていない、ただただ引きこもっていただけで、普通の人が得てきているものを何も得ていない、だから自分の人生は無意味だったと、そのように考えてしまうのです。
確かに、そのようなものを得ることには充足感があります。世間的にも尊敬されるものでしょう。一般に、「幸福な人生」というと、そのようなものをたくさん得る人生だということになります。
しかし、私は、心というものの価値を考えるようになって、実はそういうものだけが大事なものではないのでは、と考えるようになっています。一般的には、ほとんどかえりみられることはありませんが、心が感じる様々な経験と、そのような経験の中で何を考えていったかということも、大事なものであると考えています。不登校の状況にある子供たちの人生は、何も得ていないように見えても、心では経験と、その経験の中で考えたものが得られる人生であり、決して無意味ではないと思うのです。
不登校の状況は苦しいことが多いです。悩むこともあるでしょうし、自己否定感を抱くこともあるでしょう。不登校という経験の中で、そのように考えていくのは、当人にとっても、その周りにいる家族にとっても、苦しいし辛いことではあります。
では、そういうふうに苦しい経験の中で、そのように考えていくことはまったくの無駄なことかというと、そうではないと思うのです。その結果、他人に対する優しさや思いやりなどの気持ちが、育っていきます。人間、辛いことや苦しいことを経験しなければ、なかなかそういう気持ちを持つことは難しいのかもしれません。順風満帆な人生は望ましいかもしれませんが、他人のことに配慮する「心のひだ」を作ることは難しいのでしょう。
また、不登校の状況で、学校に行っている場合よりも一点、有利な点があります。それは、心を見つめる習慣を得やすいということです。今の自分はどのような心の状態なのか、他人に対して悪意を持ったり、悪事をたくらんだりしていないか、あるいは怒りに満ちていないか、そういうことをチェックし、良くない心の状態であったら、心を平静にするということは、極めて重要なことです。いくら外面だけ素晴らしくふるまっても、心の状態がひどければ、その心の状態のままの人、つまりひどい人間ということになります。他人はある程度、だませるかもしれませんが、自分をだませることはできません。
学校で過ごす生活の中では、宗教的な学校でない限り、なかなか、自分の心を見つめる習慣は持てないでしょう。自分の心を見つめる習慣がなければ、自分の心の状態に気づけません。そうして自分で気づかないまま、心の状態が悪くなっていくこともあります。不登校の状況にある子供たちは、この点において、あまり他の人が持っていない習慣を身につけることになるで、何も得ていない環境ではないと思うのです。
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