不登校ブログその1292.教育の場で「公」と「私」のバランスが必要かもしれません。
- 不登校・引きこもりカウンセリング「エンゼルアカデミー」
- 2022年11月11日
- 読了時間: 3分

1945年の日本の敗戦の前後で、いろいろなものが大きく変わりました。その変わったものの中で、教育があります。戦前の教育と、戦後の教育では、「公」と「私」の比重が、大きく変わったのではないでしょうか。
戦前の教育では、国の役に立つということが重視され、「公」が重視されていたと思うのです。「私」を出すのはあまり好まれず、「滅私奉公」ということに重点を置いて教育は行われていたのではないでしょうか。
しかし、敗戦によって、それまでの教育が否定されて、それまで軽視されていた「私」の方が重視されるようになりました。「国のため」という言葉には、戦前の、軍国主義に逆戻りするような匂いがあり、「公」という意識が教育から切り離されたと思うのです。
私は戦前の、「私」を抑えて「公」に比重を置く教育に戻すべきだとは思いません。「私」を軽視した、あるいは排除した「公」は、全体主義につながっていくと思うのです。全体主義の国家では、個人の意思や存在が考慮されることはなく、ひたすら国家のために尽くすことが強いられます。そこには個人の幸福はないでしょう。
しかし、「公」を軽視して「私」ばかりに重点を置いた教育にも、それなりに問題を抱えています。「私」ばかりに重点を置くと、最終的には「自分さえよければいい」という利己主義を拡大させることになります。そこには助け合いや思いやりはなく、弱肉強食の世界が展開されることになります。
もう一つ、問題となるのは、「私」ばかりでは、生きる方向を定めにくい人がいる、ということです。人は、「私」に伴う感情によって、自分の生きる方向をある程度、定めます。簡単に言えば、やりたいことが生きる方向になっていくということです。野球に関心がある人は、野球に関係する方向に進む可能性が高くなります。
このように、「私」に伴う感情によって、自分の生きる方向を定めていきますが、それだけでは十分ではないこともあります。自分の身の回りの環境や国といった「公」を意識することで、自分が生きる方向が定まっていくということです。
例えば、発展途上国の厳しい現状を見て、そこで苦しい生活を送っている現地の人のために役立ちたいと、青年海外協力隊で働くことを決意する、というようなことです。こういう場合、「公」の現状を見た結果、「発展途上国の人に役立ちたい」という「私」の感情が出てきて、自分の生きる方向を見つけています。つまり、「公」の中の「私」を意識することで、自分の生きる方向が出ているのです。
現在の「私」が重視されている教育では、弱肉強食の様相となって、子供の中にはその場で学ぶことを望まない子供が出ることになります。場合によっては、それが不登校につながります。また、「公」を意識することがないため、生きる方向が見えず、自分は何をしたらいいかが分からないため、学校に行く目的や勉強する目的を見失って、不登校になるということもあります。
結局、「公」も「私」も、ともにバランスよく学べることが、教育においては重要なのではないか、と思うのです。
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