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いじめは、いじめた人間が自分の心を汚す行為です

 今年の7月、岐阜市の中学3年生の男子生徒が、マンションから転落死しました。学校で受けていたいじめを苦にしての自殺と見られていて、便器に土下座させられるなどのいじめを受けていたと報道されています。


 亡くなられた男子生徒の冥福を祈り、遺族の方の苦しみが少しでも和らぐことを願いますとともに、いじめを行った側にも相応の処罰がなされることも願っています。


 今回のブログでは、いじめた側について書いてみたいと思います。


 いじめは犯罪であり、それが子供の間で行われたとしても、許されるべきものではありません。いじめた側の責任、もし学校側がそれと知りながら、対処しようとせず、あまつさえ隠ぺいしようとしたなら、学校側の責任も追及すべきです。


 同時に、いじめは、いじめた人間が自分の心を汚す行為であることも、いじめを行った子供たちに伝えるべきです。


 これまでのブログの中でたびたび、心の可能性について書いてきました。心に描いたビジョンは、その人の努力を通してやがて実現していき、人はどのような存在にもなれるという可能性です。そして、どのようなビジョンを描き、どのような存在になるかは、その人に100%任されたことです。


 そのことを踏まえますと、いじめを行うという行為は、他人を傷つける、というビジョンを心に描き、いじめを行う存在になることを決めたことになります。心に描くビジョンによって、人は、他人のために生きる愛の存在にもなれますが、もしいじめのように、人を傷つける存在になるのであれば、それは「悪魔」になる選択をした、ということです。悪魔は、他人を傷つけることに喜びを感じる存在です。いじめを行う人間も、まったく同じです。


 心は自由であり、その心をどのようにするかは100%、その人に任されていますから、いじめを行うことによって、悪魔のような存在になることは、心の自由性を自ら汚し、おとしめた行為です。そのことをいじめを行った子供たちに伝えて、今もしいじめをしていたらいじめをやめ、二度といじめをしないようにするべきでしょう。


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