不登校カウンセリングブログその1270.不登校という経験を、子供にとって、そして親にとって、どうとらえたらいいのでしょうか―心が鍛えられていく経験―
- 不登校・引きこもりカウンセリング「エンゼルアカデミー」
- 2022年10月20日
- 読了時間: 3分
更新日:2022年10月21日

今回のブログはおそらく、不登校の経験を乗り越えた方には「そうだね」と同意していただけて、不登校の状況の中で苦しんでおられる方には「そんなことあるものか」を反感を買うものであるでしょう。
不登校の状況の中で苦しんでいる方、子供とその親御さんにとっては、不登校という経験はひたすら、早く終わってほしいものでしょう。不登校が長く続くほど、大事な時間を失っていき、子供の人生の可能性が狭められていくように感じるでしょう。そのように感じておられる方にとっては、今回のブログの内容は受け入れがたいものであると思います。
不登校に限らないことだと思いますが、不登校のように苦しい経験、辛いと思う経験は、人生には起きてきて、どうも避けられないもののようです。今、不登校の状況になく、普通に学校に通っている子供の姿は、不登校の状況にある子供にとっても、その親御さんにとっても、うらやましく見えるかもしれません。ただ、その子供は、今は不登校の状況にはないだけで、将来は何か、苦しい経験や辛い経験が起こるのでしょう。おそらく、人生ずっと、順風満帆な人はそんなに多くはないはずです。
どうして、不登校のような辛く、苦しい経験が起こるのでしょうか。それは、そういう経験は、人の心を磨いてくれるものだからです。体を鍛えようとする場合、体にとって負荷のかかることをします。息切れし、筋肉が悲鳴をあげるようなことをして初めて、体は前よりも鍛えられます。それと同じように、心を鍛え、磨くために、辛く、苦しい経験が起こるのだと思うのです。
人は何のために生きるのでしょうか。それに対する答えは人によってさまざまです。私が考える、生きる目的とは、心を鍛えていくことです。心は目に見えず、脳科学者の一部からは、「心は頭の電気信号であり、そんなものはない」とも言われていますが、私は存在していると考えています。そして、肉体が主ではなく、心が主であると考えています。心が主であり、肉体が従です。その心を鍛えるために、人生においては無数の経験をしていきます。心を鍛えるという点では、その経験は、本人にとって辛かったり、苦しかったりするものの方が多いのです。
さまざまな辛く、苦しい経験の中で、人は自分を見つめ、今までの自分に何が足りなかったのか、必要なものは何かを考えます。その過程で、心を一人静かに見つめていきます。それは決して、楽しいことではないでしょう。この苦しい状況がいったいいつ終わるのか、まったく先が見えません。そんな中で、心を静かに見つめるのは、なかなかできないことです。
しかし、そうしたことを通して、心を見つめ、鍛えられて行って、不登校という経験が終わりを迎えた時、不登校が起こる前よりも、自分が変わったという実感を、子供も親御さんも抱きます。それが、心が鍛えられたという実感です。不登校を通り越した人の多くが、「それまでの自分とは、違った自分になった」ということをお話しされますが、心が鍛えられて変わったということなのでしょう。
わが子が、不登校になってしまったら、しばらくその状況は続くでしょう。不登校になった直後は、親御さんも子供も心が揺れ動き、とても平静ではいられないと思います。しかし、時間が経過して、心の落ち着きを取り戻したら、不登校という状況の中で、今、心が鍛えられていて、不登校を通り越した時、それまでの自分とは違う自分になっていると信じていただければと思います。
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