思春期の不登校の子供の中には、他人が気になって仕方がない、という子がいます。これは、思春期の成長のあかしとも言えるもので、多くの人間の中での自分の存在を意識し始め、それが他人との比較になっているのでしょう。
比較だけならいいのですが、そこから劣等感を強く抱いてしまうことがあります。その劣等感の中でも、特に女の子の場合は、容姿によるものはけっこう大きいでしょう。友達は可愛いけれど、自分はそれほど容姿に恵まれていない、と劣等感を持ってしまい、その劣等感が強いと、対人恐怖症になることもあります。
容姿に関する劣等感は、なかなか根強いものがあります。世の中を見ても、容姿の優れた人が優秀だとか、優位に立てるという傾向があるように思います。マスコミや雑誌、ネットなど、さまざまな宣伝媒体がある現代社会では、どうしても見栄えのいい人が重んじられてしまうのでしょう。美しいものや可愛いものを好むのは自然な気持ちですので、それを間違いだと切って捨てることは難しいです。
この場合の問題は、容姿がよくないと幸福になれない、と考えてしまうと、その考えで自分をしばってしまい、幸福になる道を自分で閉ざしてしまうことです。
「シンデレラ」の物語はみなさん、ご存知でしょう。この物語には、シンデレラが美しいから幸福になれたのであって、もしそうでなかったら幸福になれたのだろうか、という見方もできます。漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」で主人公の両津勘吉がそのことを指摘して、周囲の人がたじろいでいました。
「美しいから幸福になれた」という物語は、けっこう身の回りにあります。そうした物語に慣れ親しんでいくと中には、「容姿がよくないと幸福になれない」というところまで考えてしまう子がいてもおかしくありません。
確かに、人生の早い段階では、容姿が恵まれている方が得をすることは多いです。それはある程度、事実です。恵まれていない容姿をからかったり、馬鹿にしたりするようなことがあるのも事実です。この点は認めなければいけません。「そんなことないよ」と言っても、偽善やごまかしと受け止められる可能性があります。
しかし、もっと長い目で見たらどうか分かりません。長い目で見て、幸福になるかどうかは、容姿ではなく、心の方が重要度としては高くなるからです。幸福になる人とは、ずばり、他人を幸福にする人です。他人を不幸にしたり、他人の幸福を奪ったりするような人は、短い間では一時的に幸福になれるでしょう。でも、長い期間で見ると、不幸になることの方が多いでしょう。本当に幸福になる人は、心が豊かで他人を幸福にしようとする人だと、私は考えています。
心が幸福のカギとなるなら、それはすべての人が可能です。容姿が幸福の基準なのでしたら、身分社会のように幸福になれる人が最初から決まっていることになりますが、そのようなことはありません。心は誰もが、磨き、豊かにすることができます。
もし、容姿のことでからかったり、馬鹿にしたりする人がいたら、それはその程度の人間であり、付き合うべき人間ではありません。嫌な気持ちにさせられることがあるかもしれません。ただ、人を容姿でしか判断できない、気の毒な人間だと、むしろ憐れむべきなのでしょう。そういう人間の言うことを、こちらがまともに取り合う必要はないのです。まともに取り合い、心に傷をつけてしまうのは馬鹿馬鹿しいことです。
もう一つ、容姿は変わるということもあります。姿かたちではなく、年月を重ねると「いい風貌」というものが存在するのです。心の中にあるものが、顔に現れてくるのです。リンカーンが、ある人を閣僚にするかどうかで、ダメだと断ったことがあります。なぜかと側近に問われて、「顔が悪い」と答えました。「顔が悪すぎる。40歳を超えたら、自分の顔に責任を持つべきだ」とリンカーンは話したのです。単純な顔の美醜を問題にしていたのではなく、ある程度の年齢になってもいい風貌になっていないのなら、それは自分の責任だということなのでしょう。
そうしたことを伝えて、今すぐではなくてもいいので、徐々に劣等感がなくなるようにしてあげるのが、そういうことで悩み、劣等感を持ってしまっている子供への、働かけの一つです。
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