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子育ては、結果ではなく、かけた愛の質ではかられます―不登校のお子様をお持ちのお母様へ―

 生きていく過程で、多くの人が学んでいることが一つ、あります。それは、「愛」です。


 「愛」という言葉の響きから、男女の愛について想像してしまいがちですが、男女の愛に限らず、さまざまな人間関係において「愛」はあります。親子、兄弟などの肉親における愛、友達との愛、子弟の間の愛、「愛」を「相手のことを思うこと」と解釈すれば、会社と顧客との関係においても,、一種の「愛」は存在します。


 相手がどうすれば喜ぶのか、その悲しみや苦しいが軽くなるのか、相手にどうすればもっと役に立てるのか等、日々の生活の中で考え、実行していくことで、人は愛を学んでいるのだと思うのです。


 そして、子育てについては、子供が社会に巣立って行って、何を為したか、子供がどうなったかという結果ではなく、かけた愛の質ではかられると考えています。

 親としては、子供が社会において、何か大を為してくれることを期待しますし、実際にそのようになれば、子育ては成功したと考えるのが自然でしょう。それとは逆に、子供が社会に出て、あまり大を為すことができなければ、子育ては失敗した、と思うでしょう。


 しかし、子供の個性や才能には大きな違いがあります。もともと才能がある子供はいますし、残念ながらあまり才能がない子供もいます。才能のある子供を持てば、その子が社会に出た時に何かを為してくれる可能性は大きくなりますし、逆もまた然りです。


 わが子が才能あふれた子供であって、あまり子育てで苦労しなくともすくすくと育ち、社会に出て立派な人間になった場合と、あまり才能がないけれど、きめ細やかに愛を与え、やがて社会に出て、社会人としては平均的な生き方となった場合、どちらの子育てが価値あるものと考えるべきでしょうか。私は、後者の方だと思うのです。


 子育ては人間が相手です。機械のように、これこれのことをしたらこうなる、ということはあてはまりません。素晴らしい子育てをしたとしても、それが100%報われるとは限らないのです。

 ですので、子供のことをどれだけ愛し、そして実際に愛を与えたか、という「愛の質」こそが、子育ての成否を決める基準になると、私は考えています。


 子供が不登校になり、一生懸命に愛情を注いだけれども、学歴のハンディ等のために、社会に出て子供は十分な結果を出せなかったとしても、そのことは、子育てがうまくいかなかったということにはなりません。子供が社会に出てどうなるかわからない、何をしてくれるかわからない、それでも子供のために一生懸命に愛情を注いで、子育てをする行為そのものが、尊いことではないでしょうか。


  

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